現代の教育指導の「甘さ」は悪の甘さか?

義務教育課程における、生徒への指導が甘い、というトピックがトレンド入りしていたが、まず「甘い」という状態が、どんな「悪い」に関連を持つのか、考えなければならない。

 

「甘い」という言葉が、「体罰」に敏感になった事に対して発せられているのであれば、まったくの筋違い。

「暴力は犯罪」という定義を復唱した方良い。

 

確かに当時(私の過ごした昭和50年~60年代)は、教師による往復ビンタやケツバット(実際は木刀だった)を週に数度目にし、休み時間を過ぎてまで熱中していたボードゲームを、床にたたき付けられ真っ二つに破壊された事もあった。

 

ただ、思い出の美化というか、不思議と今は「良い思い出」なのだ。当時の同級生とも毎回笑いのネタになる。

そして、現代の「甘い」指導体質と比較して、自分たちは「理不尽で厳しい時代を耐え抜いたのだ」という優越感が沸く。

当時を過ごしたたいていの人間は、そう感じた事があるのではないだろうか。

 

問題なのは、旧時代との差を、時代背景の変換をなしに、今の子供たちに埋めさせようとする声が出てしまう事。

そういった声が発生する源泉は何なのか?

 

その源泉とは至極基本的な感情。

「不公平」感からくる怒。

 

不公平に対して声を上げる事は正しい行いだが、不公平の「解消のさせ方」に勘違いをしている大人が多い。

「小学校にクーラーなんぞ甘い」と一蹴する年寄りが良い例。

自分たちがクーラーで過ごせなかったからという苦を、今の時代に押しつける事による「実りの少なさ」を理解しないといけない。

目的に対して不要な障害を排除していく事は自然であり、そこに「悪」はない。

 

クーラーで快適になったのであれば、その分、現代で新たに味わう事になる新種の「苦労」に取り組めば良い。

同時に、旧世代の人間は、自分たちの知らない苦労が今の子供たちにある事を、一方的に見ぬふりしたまま、公平感の秤にかけてはいけない。

 

では主題の「指導が甘い」に対して、関連する具体悪とは何なのか?

それは、低姿勢になった学校につけこみ、自儘に権利を行使する親たちである。