Appleへの「アプリストア開放義務づけ」について感じたズレ

まず多くの記事とその反応を収集した結果「保安」と「文化」という側面について、土俵を分けて考える必要があると感じた。

 

コンシューマ側(アプリ利用者)の立場としては、ストアを開放する事は害悪にしか見えていない。

多くの反応は、Appleの審査をパスしないアプリが流通する事で、セキュリティが低下する事を危惧している、といった声だ。

これは「保安」の側面であり、「文化」の側面に対して反応している訳ではない。

 

また、この反応から窺える事は、利用者からしてみれば、商品の質が確かで、かつ安定した価格で供給されている状態であれば、市場が独占されていようが、オープンだろうがどちらでも良いという事である。

 

では、わざわざ政府がこの方針を提起している理由は何だろうか。

問題となるのはデベロッパ側である。

Appleストアに多大な恩恵を受けているデベロッパと、そうでないデベロッパが存在する不公平感が「自由な市場」を政府に掲げさせる一因になっている。

 

まずアプリの審査が大きな足枷となっている。

審査の内容は「保安(セキュリティ)」「文化(倫理)」の2つの全く異なる観点があり、公平さを欠くのは後者である。

 

例えば、日本のCEROで審査が通ったゲームを、アプリストア向けにリリースしたいと思っても、Appleの価値観にそぐわない描写が含まれていればNGとなる。

例え、販売地域を日本国内にフィルターしたとしてもである。

 

事実、Appleストアに特集としてフィーチャーされるのは、Appleの主義や価値観に倣った「行儀の良いアプリ」だけである。そういったAppleと相性の良いアプリをリリースしているデベロッパにとっては、アプリストアの居心地はたまらなく快適な場所だろう。

 

寡占状態の大義として「セキュリティを担保している」と言えば、聞こえは良いが、その裏にある文化的価値観の強要は、別問題として認識しないといけない。

ストアの開放は問題解決の手段のひとつであって、決してこの問題の本質ではないのだ。

 

本記事の冒頭で、コンシューマの反応を述べた。

その大半が、詐欺、個人情報の盗み取りといったマルウェアがインストールされる実害を恐れている。

 

マルウェアではない安全なアプリを選択するには、知識を求められる。

だが、自分の文化的価値観に合わないアプリを排除するのは簡単である。

 

※補足

本記事で言及したい事は、文化の多様性が蔑ろにされていないかという心配であり、倫理観による規制を撤廃したいという趣旨ではない。